最近,西洋占星術や四柱推命などから,自分の理解がだいぶ進んできまして,先日は,ついに子どもの頃からの念願だった,ミスティックレクタングルのわりと納得のいく解釈ができた気がしました。
ミスティックレクタングルというのは,180度の配置が2つあって,60度(120度)の角度で交差しているものです。
この配置を線で結ぶと長方形(レクタングル)になるのでこの名前が付いたと思われます。
個人的には,客観性を生産的に使える配置と思っていて,あんまり神秘的(ミスティック)じゃないですよねー。
わりと加護と厄災がいっぺんに来ていた自覚はあって,そういう意味ではミスティックなのかなー。
神秘的とかそういう名前がつく運勢を表すものに手相の神秘十字があります。
私は手相のことは詳しくないので,あくまで自分にある手相として,ということですが,神秘十字も強運の持ち主とか,守護に恵まれるとか,信仰心が篤いとか,そういうことが言われます。
人生を進めていくうえで,強運というのは持っていて損はないです。
私自身もいろいろ起こってきましたが,その中でいいものを選び,悪いものは避けることができてきたから,生きてこれたところはあると思っています。
ただ,気づいてしまったんですね。
加護と厄災がごちゃ混ぜで押し寄せてくると,自分にとって何が良くて何が良くないのかの判断があいまいになってくることに。
極端な例ですが,自然災害が多い昨今ですから,そういった災害時に,決定的な被害を免れるという点では,強運というのはとてもありがたいです。
一方で,たとえば,モラハラ的な人が近くにいたとして,そういう人に対して堪え忍ぶ必要がどこまであるのか,といったら,個人的にはないと思っています。
何が違うかというと,自然災害は避けるのが難しいという点で,大難を小難にすることができるのであれば「自分のためになる」。
モラハラ的な人は,こちらが一方的に傷つけられて弱るので「自分のためにはならない」ということです。一部例外として「トレーニングとしてモラハラと対峙する」というのがあるかもしれませんが,通常はあまりおすすめできないトレーニング方法かな。かなり上級者向けなのでは。
精神力を鍛えたいということであれば,別の方法があるのではないかな?と思います。
この図式は,自然災害とモラハラはあくまで一例で,いろんなことに対して言えると思います。
加護には素直に感謝して,厄災の種類を選ぶこと。
選ぶ基準はなんでもいい気がしますが,とりあえずは「自分のためになることを選ぶ」という視点を持つと,人生の進め方が違ってくる気がします。
加護なり守護なりを与えている存在がいるとして,あるいは自分の潜在意識が加護的な守護的な現象を選んでいるとして,そういう存在や自分の意識が,自分のためにならないことを選ぶことを喜んでくれるかどうか。
私が守護する立場だとしたら,そんなどうでもいいことは避けて,自分のためになる,力になることを選んで幸せに生きてほしいと願うと思います。